池田傳三、池田屋を創業
1923年、富山県富山市四方に5人兄弟の3男として創業者である池田傳三(でんぞう)は生まれる。
実家は富山で池田屋という教育資材店を営んでいた。
戦争中に明治大学に通っていた傳三は、1943年には学徒出陣として戦いの最前線へと送られた。
終戦後は、妻君子と結婚。1948年、池伝株式会社の前身となる池田屋を東京新橋に25歳で創業した。
2年後の1950年には、後に2代目社長となる長男 池田宗義が誕生、3年後の1951年に株式会社 池傳を設立した。
戦後の世の中を明るくするため
戦争から戻り、妻 君子の父と兄が営んでいた喫茶店向けにシロップ等を卸す事業を共同経営していたことが始まりである。
傳三はチョコレートをアイスキャンディーにかけただけで価値が2倍になることに感動を覚え、池田屋で洋菓子の材料を販売することを決意した。
当時の世の中は甘いものに飢えていたが、材料の入手は困難を極め、砂糖や小麦粉の配給制は1952年まで続き、ココアやチョコレートを米軍から闇ルートで仕入れていたこともあった。
戦後の世の中を明るくするため、当時としては珍しいケーキや焼菓子の普及のため、全身全霊で材料の入手に挑んでいた。
洋菓子の発展と傳三の人物像
創業してから1985年に亡くなるまでの34年間、
お客様と共に池傳も発展し名古屋、福岡、札幌、大阪に営業所を開設し売上は90億円に達していた。
公私の区別が少ない時代で、お客様との繋がりが深かった。お客様を自宅に招きいれることは当たり前。
遠方のお客様は家に泊め、子供達も常にお客様や社員の人達と触れ合っていたそうだ。
いつの日か、情報や技術を求めてお客様も傳三の元に集まっていた。
ホスピタリティに溢れ、独特のユーモアで人を笑わせたり、宴席で手品を披露することが得意であった。
メープルシロップ解禁でカナダで列車が2時間遅れた際には、見知らぬ人達を集め手品で喜ばせていたという。
半面、曲がったことや理不尽なことは大嫌いで、例え相手がお客様でも机を蹴り飛ばして帰ることもあったそうだ。
「事業を営むなら世の中をどのようにしていきたいか考えろ」という信念は、後継者にも引き継がれ、今日に至っている。